ランドリーゲートとデイドリーム
赤い公園の世界において初期から後期まで一貫して底流をなしているのは、<赤い公園>と<ランドリーゲート>のせめぎ合いである。
これは<夢>の語に注目すると分かりやすい。津野は明らかに<赤い公園の夢>と<ランドリーゲートの白昼夢>を区別している。
注目すべきは<白昼夢>であるのだが、<白昼夢>の語はそのまま「デイドリーム」で出てくるときや、インタビューやライナーノーツで言及されるとき、またはもっとなにげない形で出てくる。
では津野における<白昼夢>とはどんなものか。以下は「交信」に関して津野が喋っている箇所。
でも、やっぱり自分一番大事にしているのは、小さいときにリビングでやっていた家族の音楽会なんですよね。そのときの記憶や感覚を引きずっているといったらアレだけど、全曲に影響していると思います。
そんなときにフッと隙間みたいなところに落ちて、心が「あの頃」にワープしたような感覚があったんです。それは、身体はここにあるのに、頭は向こうに行ったきりになるかもしれないと思うような危険な状態でもあったと思うんですけど……そこまでの状態だったからこそ、一点の曇りもなく「あの頃」を描けているというか。思い出しているというよりは、ちょっと白昼夢的な感じがあって。
“思い出しているというよりは、ちょっと白昼夢的な感じ”とある。その直前に“身体はここにあるのに、頭は向こうに行ったきりになるかもしれないと思うような危険な状態”とあることから、津野にとってのその白昼夢は、あの頃の輝きを体験すると同時に、危険なものでもあるらしい。
これは最初から最後まで一貫している。
ランドリーは輝きの記憶でもあるのだが、死への誘いでもあるダブルミーニングとして使われているように見えるからだ。以下詳しく見ていく。
最初にランドリーゲートが出てくるのは黒盤の「yes,lonely girl」。
1.ジャラジャラと鎖を外す音(か金属製のゲートを横に開ける音)
2.津野が向こう側に歩いていく足音(ぽちゃん、ぽちゃん)
3.「ガタンガタン」というコーラス→引き込み線を再現
4,次の曲の「潤いの人」の歌詞“かさぶたに穴を開けて 苦しい私は海へ”
まず4から。
津野はランドリーゲートの向こうに海があるとしている。それは「sea」からも分かる。
“ゲートが開く音がする
ここは海 あの人自体”(「sea」)
またインタビューでも以下のように語っている。
津野:私の解釈その1だと、この人は、愛する人をなくして、戦いなのか何なのか、海に行ったまま帰ってこない。彼女はその海でずっと、“これはあの人のかけらだ”と思って、貝殻を守っている。そこに人が来ても、この海は私の大事なあの人なので、お帰りくださいという、“貝殻あげるから帰ってください”というような物語を、そんなに詳細に書かなくてもいいかなと思って、かいつまんで書いてみました。
――うーむ。なるほど。
津野:今はそういうふうに説明しちゃったけど、ほかにもいろいろ考えようはあるんです。
――<ゲートが開くその時まで>ですからね。いずれ何か、事件が起きそうな。
津野:生と死の扉みたいな。すごく神聖な感じがするので、現実感と、現実味のなさと、行ったり来たりするようなサウンドがいいなと思って、こんな感じになりました。
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ゲートの向こうにあの人のかけらがある。それを津野は大事に抱えている。あの人が冷凍保存されている。そこへ来る人間も津野であろう。
“宝物を分けるから
お帰りくださいお嬢ちゃん”(「sea」)
なぜ“お帰りくださいお嬢ちゃん”なのか。<あの人=昔の父>と一緒になってしまったら、津野は死んでしまうからである。ゲートの向こうにいるのは、音楽をやっていた父、昔の父である。昔の父は今はいない(津野は昔の父の復活のために作品の中で色々やっているのだが、それは別の記事にまとめる)。
過去の輝きの日々に救いを求めて、津野はランドリーに来てしまうのだが、その輝きは失われた日々である。それと一緒になれば津野も美しいランドリーの白昼夢のなかで渦に呑み込まれてしまう。
“デイドリーム
さあこっちへおいでと
さそう渦”(「デイドリーム」)
“デイドリーム
今醒めてしまうには
美しすぎる”(「デイドリーム」)
“デイドリーム
まだそっちに置いてて
もうひととき”(「デイドリーム」)
ランドリーは凍てついている。父はその向こうの海で冷凍保存されている。
“凍てつくランドリーの前
とっとと行きな”(「ランドリー」)
“震えている
君をほっておけないのさ
必ずそこまで迎えに行くよ
その時は本当の笑顔をみせて”(「風が知ってる」)
“本当の笑顔をみせて”とは、音楽をやっていた頃の笑顔をまた見せて欲しいということだろう。その直前に“戦う理由などあるとするなら ひとつだけ”とあるが、これは上のインタビューの「愛する人をなくして、戦いなのか何なのか、海に行ったまま帰ってこない」と似ている。
「潤いの人」に戻る。
“獏、獏 夢などたべてよ
かさぶたに穴をあけて
苦しい私は海へ”(「潤いの人」)
“苦しい私”なので悪夢を見ていたのだろうか。ゆえに獏に夢を食べてほしいということか。“苦しい私は海へ”なので、救いを求めてゲートの向こうの海へ行っているのだろう。
さらに“かさぶたに穴を開けて”とある。まだ治っていない傷をほじくり返して、救いを求めて、ランドリーの向こうの海へ。悪夢→ランドリーの白昼夢へ。
輝きの日々でもあるが、それは現実にはもう存在していないためある種の夢として体験されるしかない。しかしそれは夢(白昼夢)に過ぎず、失われた、という事実が苦痛となっても現れる。ランドリーは常に両義的である。
ところで初期と後期で<海>の意味合いも変わっている。
上に書いたように「潤いの人」では<救いの海>といったニュアンスのほうが強い。しかし「sea」でうまく表現されているように<宝物>は、津野が取りに来るたびに、だんだん減っていってしまう。時間の経過とともに、アメリカンハウスの記憶は薄れていく。それが尽きたら、どうなるか。<アラバの海=死海>となる。ゲートは開いている(“ゲートが開く音がする”(「sea」))。死海がゲートから漏れ出している。ゆえに「絶対零度」において、
“アラバの海の真ん中
泳いでみせてきやしゃんせ
天と地を裏返してやれ”(「絶対零度」)
となる。