<シアンと赤>における反転
最後の謎である反転について。以下、大雑把な推論(考えたまま書いたからかなり読みずらいが)。
・シアンはRGB(0:255:255)なので、赤の正反対色
・反転だとするならばバンド名を付けた時点で、シアンと赤のRGB値を知っていたと考えるのが妥当
・デビュー作の『透明なのか黒なのか』、『ランドリーで漂白を』はどちらも彩度がない色である。
「透明」の記事を読めば分かる通り、津野は色や光の構造にそれなりに知識があったはずであり、それを細かく駆使しているのも確かであろう。この時点で「彩度」とかRGB値も知っていたのではないか。ちなみに白はRGB(255:255:255)、黒はRGB(0:0:0)。
また黒白盤において色が出てくるのは「塊」における“真っ黒な目”のみである。これもおそらく縛りをかけていると思われる。
何が言いたいかというと、デビュー作である黒白盤を見るに色を相当意識しているのだから、バンド名をつけるときにRGBにおいてシアンから赤を導き出したとしても不思議ではない、ということである。
・「mat blue」と「シアン」の二色で、パークのネオンと塗られた色を区別しているように見えるが、「mat blue」にしろ「シアン」にしろ珍しい色なわけで、ある程度意図的につけたと思われる。
深い意味がないのなら群青と水色でいいはずだし、青以外では細かい色が出てくることはない。赤色も青色と同様に大量の赤色があるはずだが、そのような区別は見られない。
ゆえに“宙に舞うネオン”=パークのネオンの青色にシアン色をわざわざ選んだのには何かしらの必然性があったと見るべきであり、それが赤の正反対色ならば、反転の論理も十分ありうるとすべきである
・「pray」において“ちょっと黒いくらいの青”と“まるで嘘みたいな青”と区別しているが、mat blueは前者、シアンは後者に合致する。青には何かしら想いが込められているように見える
・<公園>の語は『ブレーメンとあるく』の「公園」と『THE PARK』の「夜の公園」のみ。津野は言葉をけっこう細かく使うし、バンド名が赤い“公園”なのだから注目すべきだろう。
前者はヘリコプターの音があるため、おそらく立川飛行場(ランドリーがあったのはここの西側)。
後者は「夜のパークですよ」とヒントを出しているようにも見える。シアン色のネオンは夜しか輝かない。“語り出したブルー”ともある。ジャケ写にしても<夜の公園>だし、アー写も<夜のランドリー>である。そもそもランドリーは<漂白>してくれる場所なので、白い光が輝く場所であるはずだ。それは『純情ランドセル』のジャケットからも分かる。
・この<夜>が気になる。赤い公園の<赤>はシアンから導き出されるのであれば、そもそも必然性があるのはシアンのほうであり、シアンが輝くのは夜だけである。「もう一度はじめようぼくらの夜」が鍵なのか?
・赤い公園なのにセルフタイトルが『RED PARK』ではない。それに最初からその案はなかったと津野が言っている。『THE PARK』を本名と言っている。ジャケットはシアン色と黄色である。これは普通に考えてかなりおかしい。<赤>が本名ではない、と言っているように見えるからだ(というか「芸名」とインタビューで言っている)。『RED PARK』とセルフタイトルしない何かしらの理由があるととるべきである。
・「石」において“見上げた二重のネオン”とあるが、<シアンとマットブルー>で“二重”でも意味は通るが、マットブルーはネオンではない。ゆえに<シアンと反転した赤>の“二重”でとるのが妥当とも言える。
・そもそも津野は尋常じゃなく細かい。「yes,lonely girl」のゲートを開ける音はまだしも、“ガタンガタン”というコーラスで引き込み線を表したり、<transp>で立川飛行場を表したりする。ランドリーの向こうの海にしても、そこには現実に残堀川の調整池がある(これを意識したかは分からないが)。ゆえに一番重要なバンド名である、赤い公園の<赤>も細かい論理が隠されていると思うべきである。ホテルパークが由来であることはラジオから確定している。
興味ある人は考えてみてください。
ランドリーの夜
津野米咲は明らかに円環、または輪廻を意識している。それは初期から一貫している。実家にあったらしい『火の鳥』から発想を得たのではないか。根拠は薄いが、「UNITE」について『火の鳥』のロビタをイメージしたと言っていること、『公園デビュー』のジャケット製作時に<輪廻転生>に(おそらく)津野が言及したことなどから(ベビーカーから火葬場へ行きベビーカーに戻る)。
『火の鳥』の物語は、円環構造をなしている。作中の時代においてはもっとも先の時代を描いた「未来編」のラストは「黎明編」に回帰する構成になっており、作品自体が輪廻を無限に繰り返すような作りにもなっている。
未来編のラストは黎明編に回帰する。
主人公のナギの父親は重病に罹患していた。もし上空にある「血の星」という星が沈むまでに父の病が完治しなければ、村のしきたりにより父親は村人たちに食べられてしまう。悩みぬいたナギが長老に相談すると、父親の病気を治すには「火の鳥」という鳥の生き血が必要と教えられる。ナギは火の鳥を訪問し、運良く生き血を貰う。しかし、ナギが村に帰る頃には「血の星」はすでに沈み、父親は村人に食べられてしまっていた。
- 上は「黎明編(漫画少年版)」のあらすじである。これは一般的に流通してる版ではないので、根拠としては弱いのだが、
- 1,過去、父が生き急いで、雪崩れていった(「今更」)が、津野は幼くてなにも出来なかった
- 2,<未来>にたどり着いて、黎明期に回帰し、星が落っこちる前に救済をやり直す
というテーマが赤い公園にはあるように見える。
例えば「きっかけ」において、
“もういいかな
星屑も落っこちちゃった”
とある。この曲は赤い公園の“きっかけ”でもある父の救済が、なにかしらの出来事があり不可能になった。それで津野は音楽をやる“きっかけ”を失った。ゆえに今はゴミの日くらいしか生きる理由(きっかけ)がない、という曲に読める。
同じく活動休止の時期に作られた「デイドリーム」。
“止まったままの青い信号
曲がり角も見つからない
淡々と駆け抜け
風景を踏みつけてく
嵩んでばっかのデータに埋もれ
裸眼の奥に焼き付いてる
秒針が遠くなる
ふとした真昼中の
デイドリーム”(「デイドリーム」)
“止まったままの青い信号”はおそらくパークの青いネオンのこと。これは“進めの青”(急げ)でもあるとも読める。ランドリーに戻ってきてしまう津野に対して“とっとと行きな”(ランドリー)というのもパークの青であるのではないか。
しかし、父の復活という目的が不可能であるとなった今、自分の作る音楽はただのデータに過ぎない。パークの青信号にせきたてられて音楽を使っても、ただただ無意味なデータが嵩んでいくだけである。“リンゴをかじるジャンキー”(「ジャンキー」)である津野はいつでもパソコンで音楽を作っている。歌詞を見ればわかるように中期は父関係なく音楽を楽しんでいたのは明らかなので、津野が音楽を作る理由が全て父という意味ではない。
ではパークの青信号はどこへ行けというのか?<未来>である。もちろんそれは過去でもあり、ランドリーに再びたどり着くはずである。そこが“番狂わせの未来”(「贅沢」)であるなら、父は復活するかもしれない。または「想定外」(津野のヘッダー)が起これば。
<未来>にたどり着き、<黎明=アメリカンハウスの日々>に回帰して、雪崩れいく父親を救済できるかもしれない。
そもそも『火の鳥』が関係なくとも、円環を描いてたどり着く<未来>はランドリーの日々である。『火の鳥』が元ネタである、という主張ではなく、発想を得たのでは、という主張をしていることに注意。
『THE PARK』のアー写において津野はランドリーにおそらく円環を描いたのちたどり着いている。
フェンスに<DO NOT ENTER>の看板(ランドリー跡は立ち入り禁止区域。今も一部フェンスは残っている。「交信」について津野は「立ち入り禁止の看板」に言及している)、そして<transportation>の文字。
アメリカ軍は新滑走路から東側を極東航空資材司令部(FEAMCOM - Far East Air Materiel Command、 FAC 3011、通称フィンカム基地)、西側を極東空軍輸送飛行場(FAC 3012)とした。
「輸送」は英語で<transportation>であり、ランドリーは西側地区にかつて存在した(有名なのは東側のフィンカム)。
ここで気になるのが、背景が夜であることだ。ランドリーから始まって(“とっとと行きな”「ランドリー」、または「公園」のヘリコプターの音=立川飛行場)、ランドリーに戻ってきてるのであるが、ランドリーは『純情ランドセル』のジャケットに相当するように見えるからである。
・後ろから差し込む白い光=『ランドリーで漂白を』
・開発されていない森
太陽などの光が背後から差し込み、影の側にある雲粒や霧粒によって光が散乱され、見る人の影の周りに、虹と似た光の輪となって現れる大気光現象。
背後から光が差し込み、霧のようなものがあるので、ブロッケン現象なのだろう(この構図だと私たちからは虹は見えないが、津野には見えるはずである)。
「yo-ho」では以下のように描写される。
“森が呼んでる
それはいつでも
心の奥の霧の先にある
brocken spectre 光って
無邪気なまんまで笑って”(「yo-ho」)
出だしは“遥か昔のように思える 王様だったころ”。心の奥の霧の先にある森はランドリーのことであろう。ランドリーは開発されるまでは30年放置された森だったのだし、津野は繰り返し幼少期について自分を支えるものとして語っている。
しかし、たどり着いたランドリーは夜である。おそらく最初からその設定であったように見える。なぜ<夜>なのだろうか。
[追記]
ランドリーゲートとデイドリーム
赤い公園の世界において初期から後期まで一貫して底流をなしているのは、<赤い公園>と<ランドリーゲート>のせめぎ合いである。
これは<夢>の語に注目すると分かりやすい。津野は明らかに<赤い公園の夢>と<ランドリーゲートの白昼夢>を区別している。
注目すべきは<白昼夢>であるのだが、<白昼夢>の語はそのまま「デイドリーム」で出てくるときや、インタビューやライナーノーツで言及されるとき、またはもっとなにげない形で出てくる。
では津野における<白昼夢>とはどんなものか。以下は「交信」に関して津野が喋っている箇所。
でも、やっぱり自分一番大事にしているのは、小さいときにリビングでやっていた家族の音楽会なんですよね。そのときの記憶や感覚を引きずっているといったらアレだけど、全曲に影響していると思います。
そんなときにフッと隙間みたいなところに落ちて、心が「あの頃」にワープしたような感覚があったんです。それは、身体はここにあるのに、頭は向こうに行ったきりになるかもしれないと思うような危険な状態でもあったと思うんですけど……そこまでの状態だったからこそ、一点の曇りもなく「あの頃」を描けているというか。思い出しているというよりは、ちょっと白昼夢的な感じがあって。
“思い出しているというよりは、ちょっと白昼夢的な感じ”とある。その直前に“身体はここにあるのに、頭は向こうに行ったきりになるかもしれないと思うような危険な状態”とあることから、津野にとってのその白昼夢は、あの頃の輝きを体験すると同時に、危険なものでもあるらしい。
これは最初から最後まで一貫している。
ランドリーは輝きの記憶でもあるのだが、死への誘いでもあるダブルミーニングとして使われているように見えるからだ。以下詳しく見ていく。
最初にランドリーゲートが出てくるのは黒盤の「yes,lonely girl」。
1.ジャラジャラと鎖を外す音(か金属製のゲートを横に開ける音)
2.津野が向こう側に歩いていく足音(ぽちゃん、ぽちゃん)
3.「ガタンガタン」というコーラス→引き込み線を再現
4,次の曲の「潤いの人」の歌詞“かさぶたに穴を開けて 苦しい私は海へ”
まず4から。
津野はランドリーゲートの向こうに海があるとしている。それは「sea」からも分かる。
“ゲートが開く音がする
ここは海 あの人自体”(「sea」)
またインタビューでも以下のように語っている。
津野:私の解釈その1だと、この人は、愛する人をなくして、戦いなのか何なのか、海に行ったまま帰ってこない。彼女はその海でずっと、“これはあの人のかけらだ”と思って、貝殻を守っている。そこに人が来ても、この海は私の大事なあの人なので、お帰りくださいという、“貝殻あげるから帰ってください”というような物語を、そんなに詳細に書かなくてもいいかなと思って、かいつまんで書いてみました。
――うーむ。なるほど。
津野:今はそういうふうに説明しちゃったけど、ほかにもいろいろ考えようはあるんです。
――<ゲートが開くその時まで>ですからね。いずれ何か、事件が起きそうな。
津野:生と死の扉みたいな。すごく神聖な感じがするので、現実感と、現実味のなさと、行ったり来たりするようなサウンドがいいなと思って、こんな感じになりました。
赤い公園 “ずっと青春してる”4人に訊く、新体制で切り開くバンドの現在と未来 | SPICE - エンタメ特化型情報メディア スパイス
ゲートの向こうにあの人のかけらがある。それを津野は大事に抱えている。あの人が冷凍保存されている。そこへ来る人間も津野であろう。
“宝物を分けるから
お帰りくださいお嬢ちゃん”(「sea」)
なぜ“お帰りくださいお嬢ちゃん”なのか。<あの人=昔の父>と一緒になってしまったら、津野は死んでしまうからである。ゲートの向こうにいるのは、音楽をやっていた父、昔の父である。昔の父は今はいない(津野は昔の父の復活のために作品の中で色々やっているのだが、それは別の記事にまとめる)。
過去の輝きの日々に救いを求めて、津野はランドリーに来てしまうのだが、その輝きは失われた日々である。それと一緒になれば津野も美しいランドリーの白昼夢のなかで渦に呑み込まれてしまう。
“デイドリーム
さあこっちへおいでと
さそう渦”(「デイドリーム」)
“デイドリーム
今醒めてしまうには
美しすぎる”(「デイドリーム」)
“デイドリーム
まだそっちに置いてて
もうひととき”(「デイドリーム」)
ランドリーは凍てついている。父はその向こうの海で冷凍保存されている。
“凍てつくランドリーの前
とっとと行きな”(「ランドリー」)
“震えている
君をほっておけないのさ
必ずそこまで迎えに行くよ
その時は本当の笑顔をみせて”(「風が知ってる」)
“本当の笑顔をみせて”とは、音楽をやっていた頃の笑顔をまた見せて欲しいということだろう。その直前に“戦う理由などあるとするなら ひとつだけ”とあるが、これは上のインタビューの「愛する人をなくして、戦いなのか何なのか、海に行ったまま帰ってこない」と似ている。
「潤いの人」に戻る。
“獏、獏 夢などたべてよ
かさぶたに穴をあけて
苦しい私は海へ”(「潤いの人」)
“苦しい私”なので悪夢を見ていたのだろうか。ゆえに獏に夢を食べてほしいということか。“苦しい私は海へ”なので、救いを求めてゲートの向こうの海へ行っているのだろう。
さらに“かさぶたに穴を開けて”とある。まだ治っていない傷をほじくり返して、救いを求めて、ランドリーの向こうの海へ。悪夢→ランドリーの白昼夢へ。
輝きの日々でもあるが、それは現実にはもう存在していないためある種の夢として体験されるしかない。しかしそれは夢(白昼夢)に過ぎず、失われた、という事実が苦痛となっても現れる。ランドリーは常に両義的である。
ところで初期と後期で<海>の意味合いも変わっている。
上に書いたように「潤いの人」では<救いの海>といったニュアンスのほうが強い。しかし「sea」でうまく表現されているように<宝物>は、津野が取りに来るたびに、だんだん減っていってしまう。時間の経過とともに、アメリカンハウスの記憶は薄れていく。それが尽きたら、どうなるか。<アラバの海=死海>となる。ゲートは開いている(“ゲートが開く音がする”(「sea」))。死海がゲートから漏れ出している。ゆえに「絶対零度」において、
“アラバの海の真ん中
泳いでみせてきやしゃんせ
天と地を裏返してやれ”(「絶対零度」)
となる。
電報・モールス信号
赤い公園においてはモールス信号や電報が作品の中にちょこちょこ顔を出す。以下に列挙する。
・「ランドリー」の歌詞、“ちょっとやそっとじゃ打たない電報”
・「交信」のモールス信号
・「BEAR」の交信の音(2:36あたり)
・「yo-ho」の電報またはモールス信号を打つ音(2:03あたり)
「ランドリー」の電報はすでに記事に書いたが、他の電報・モールス信号も意味は変わらない。「BEAR」で交信の音がするあたりの歌詞は以下。
“今夜もまた
話をしよう
ことばはいらない”(「BEAR」)
これに続く歌詞は、
“ただいまに
おかえりがずっと聞こえる
きっと聞こえる”(「 BEAR」)
これは「東京」の以下の部分と似ている。
“お帰りと言いたくて
ただいまと言って欲しくて
どこからでも分かるように
ネオンサイン光らせてる”(「東京」)
“ネオンサイン”とは、ホテルパークのネオンのことだろう。
「BEAR」においても「ただいま」「お帰り」と言っていた頃、つまりアメリカンハウスの日々と交信している。
注目すべきは「yo-ho」である。
2:03くらい「ダダダダダダ」とボタンかなにかを連打する音が聞こえる(この奇妙な音はrayfさんに指摘されて気づいた)。そこで歌われる歌詞は以下。
“置いていかれそうで
慌ててふと気づけば
空のケースがただ走ってた
そんなゴールで喜べばしないんだから”(「yo-ho」)
そしてその直後のサビの“yo-ho”と叫ぶところで、このボタンを打つ音に呼応するかのようにドラムが連打される。yo-hoはヤッホーみたいな感じか。津野がSOS(モールス信号か電報)を打つと、美しい森から返答の「ho」が力強く轟くということだろうか。
では歌詞を解釈するとどうなるか。
幼少期へSOSを求めて交信をしたり電報を打ってばかりいたら、置いていかれそうになって慌てて走り出した。しかしふと気づくと空のケースが走ってた(近い時期に津野はバンドのことを「容れ物」と言っている*1)。そんなゴールじゃ喜べない。
なにが言いたいかというと、こうである。
まず初期は父のテーマがそれなりに出てくる。特に『公園デビュー』は色濃い。このころに何かがあったと思われる(とくに活動休止のあたり)。しかし中期は父はほとんど姿を消す(“空のケース”)。そして、「yo-ho」で“そんなゴールじゃ喜べやしない”といい、その次のアルバム『THE PARK』では父が全面に出てくる。これは「中期が空っぽだった」という意味ではなく、佐藤千明脱退で<家族>というテーマが再浮上した、と見るべきである。中期は電報を打ってなかったけれど、久しぶりに電報を打ったら未だランドリーからは力強い返答がある、といったニュアンスだろう。
『公園デビュー』と父
「もんだな」に“開かないな 足らないな さらばの門 重たいな”とある。やはり父とはバイバイ出来ないし、父を代替できないのだろう(「贅沢」「ショートホープ」)。<門>はランドリーゲートを想起させる。しかし曲の終わりは“染みちゃうな 忘れたいな しつこいな?うるさいな!”である。決別の意図が感じられる。
さらに<未来>の語も複数回出てくる。「カウンター」では“我々は未来から集合がかかっている”、「贅沢」では“ちゃんと願ってる番狂わせの未来”。これは以前に書いた円環モデルの<未来>ととってよい。
“カウンター喰らったくらいでひるんでしまうならば出直せ 我々は未来から集合がかかっている”とある。何かしらの出来事が活動休止の頃に起こりカウンターを喰らったが、走って、急いで、円環を描いて<未来>にたどり着き、そこで想定外の出来事が起きることを狙っているのだろう(これはおそらく『火の鳥』の「未来編」が「黎明編」に回帰することと関係する。それはまた別の記事にまとめる)。
しかし『公園デビュー』以降、中期においては、このようなモチーフはほぼ完全に姿を消す。以下、中期において父に関わると思われる曲。
・『猛烈リトミック』
「私」→<未来>の語。オリジナルの三曲目なので以前からある曲
「風が知ってる」→“震えてる君をほっとけないのさ”。“凍てつくランドリー”の向こうにいる父のことだろう
・『純情ランドセル』
「東京」→“お帰りと言いたくて ただいまと言って欲しくて どこからでもわかるように ネオンサイン光らせてる”
「ショートホープ」→“代替できない・バイバイ出来ない”
「デイドリーム」→白昼夢はランドリーに相当。“さそう渦”はゲートの向こうの海からの誘い(活動休止の頃に作られた曲)
・「熱唱サマー」
「BEAR」→“ただいまにおかえりがずっと聞こえる きっと聞こえる”
<未来>や<円環>、<ゲート>のモチーフはほぼ出てこない。「私」、「デイドリーム」は『公園デビュー』以前に作られているので、中期ではゼロと言い切ってもよい(前期は『公園デビュー』まで、中期『猛烈リトミック』〜『熱唱サマー』、後期『消えないEP』、『THE PARK』)。
「透明」/赤い公園
我田引水であるかは読者の判断に任せる。説得的に書こうとすると長くなりすぎるからだ。自分的には、かなりカチッとした論理で津野は色々やっている印象。
“色を塗るよ
ぼくの手に
このままじゃ、ああ”(「透明」)
“色を塗るよ
きみの手に
このままで、ああ”(「透明」)
『透明なのか、黒なのか』、『ランドリーで漂白を』からすぐに思いつくのは、漂白される必要があるのは、黒であるということだ。
とりあえず“ぼく”=津野米咲を黒として話を進める。
津野が黒の場合、色を塗るとどんどん黒くなってしまう。ゆえに”このままじゃ”、となる。
しかし、“きみ”=つのごうじが透明の場合、色を塗らないと始まらないのであるから、”色を塗るよ このままで”、となる。
つまり、おそらくつのごうじ=透明としている。
<つのごうじ=透明>をほぼ確信したのは、以下のツイートである。
無色透明地震すりぬけて門
— つのまいさ (@kome_suck) 2011年3月15日
透明だから門をすり抜けるのだ(若干強引な読みだが)。このツイートは「世紀末」に反映されているように思う。
“大通りを大魔神が練り歩く
ビルもみんな潰されても
あいつだけがくぐりぬけるラッキーだな、助かったな、
君は見当たらない”(「世紀末」)
透明のつのごうじだけがゲートをくぐり抜けるが、”君”=音楽をやっていた父は戻ってこない、という意味ではないか。
ところで『透明なのか黒なのか』とあるように、透明or黒なわけで、津野=透明or黒、つのごうじ=透明or黒とも読める。
これはのちの『熱唱サマー』の一曲目、「カメレオン」で、”本当の自分なんて透明もいいとこ”とあるように津野=透明の場合もあるようだ。
赤い公園の由来②
「赤い公園の由来がホテルパークである」という説の根拠を挙げる。
この冒頭で「赤い公園の名前の由来となった公園がある東中神駅」と言っている。またTwitterで「赤い公園 由来」で検索したところ、前にもラジオでこっそり「赤い公園の由来は東中神の公園」と言っていたようだ。ホテルパークの最寄りは東中神駅である。
立川昭和記念公園裏 東中神駅より徒歩12~13分と、少し遠いのですが、住宅街の静かなホテルです。全室駐車場を完備しております。HOTEL PARK (パーク)|東京都 昭島市|ハッピーホテル
インタビューで『THE PARK』を「本名」と言ってること、レッドパークという言葉は用意していなかったと言っていること、さらにジャケットの2色がホテルパークの2色(水色と黄色)と同じことからも確定と言ってよいだろう。
ここで問題なのは、なぜ青い公園ではなく、赤い公園と名付けたか、である。そこで反転してるのではないか、という謎めいたことを言っていたのであるが、やはり反転してるらしいのだ。
未来 未来 時代
宙に舞うネオン シアン レオン(?)(「未来」)
”宙に舞うネオン シアン”とある。このネオンをホテルパークのネオンだとすれば、パークのネオンの青はシアンとなる(おそらく「mat blue」はネオンではない塗られた色の青)。
このシアンが、光源色の場合(ネオンは光)、RGB値が(R, G, B) = (0, 255, 255)となる。つまり赤の反対色である。
さらに「石」において”見上げた二重のネオン”とある。この場合、解釈の候補は二つ。
1、シアンとマットブルーのこと
2、シアンと反転した赤のこと
マットブルーはネオンではないため、2で意味を取るのが妥当とも言えるが、まぁ言い切るのは無理。“二重”を青と黄色の二色と取るのは変。写真を見た感じ1かなって気もする。
ちなみに前の記事で「pray」について書いたが、
ちょっと黒いくらいの
青い空がよく似合う(「pray」)
まるで嘘みたいな
青い空がよく似合う(「pray」)
は反転せず、そのままホテルパークの二色、シアンとマットブルーだろう。「赤い公園がよく似合う」といったニュアンスだろうか。
つまり反転の論理がなされているのはおそらくネオンのシアンのみである(前の反転の記事群は間違い。昔のランドリーを白としていて、現在は矯正センターなのだから黒としていると勘違いした。おそらく現在の父は「透明」からも分かるように透明とされているはず)。
あと気になるのが、赤い公園の楽曲で<公園>の語が出てくるのは『ブレーメンと歩く』の「公園」、「夜の公園」のみである。「公園」にはヘリコプターの音があり立川飛行場かなと思っているが、「夜の公園」において”公園”の語を出すのはネオンが夜しか光らないからではないか。津野はギリギリ読み解ける程度のヒントを出す癖があるのだが、この<夜>が最後の鍵っぽいな、と思っている。
赤い公園と<未来>
今回は時間における円環。これがメインのはず。
まずバンド最初期に作られた「私」から。
“一秒ごとの針の悲鳴に
痛んだ胸の内
未来を偲んだ”(「私」)
とある。普通は<過去を偲ぶ>なので、意図的に言い換えてるととっていいだろう。
では、未来と過去が重なるような時間のモデルは何か。円環がまず思い浮かぶ。これが直球で出てくるのが「未来」。
“未来 未来 時代
宙に舞うネオン シアン レオン(?)
始まりみたい 未来 未来
帰ろう”(「未来」)
<未来>が<始まりみたい>であり<帰る場所>でもある。「未来に帰る」という表現は少しおかしい。ここでも<過去>を<未来>と言い換えているととってよいだろう。そもそも円環の時間の場合、<未来>と<過去>は同じ場所に位置する。
では、なぜ円環の時間を採用するのか。
「私」に“一秒ごとの針の悲鳴に痛んだ胸の内”とある。直線の時間の場合、過去はどんどん遠ざかってしまう。つまり一秒ごとに、ランドリーの日々は遠ざかってしまい、復活や復元、またはたんに思い出すことさえも難しくなっていく(宝物である記憶が薄れていくことが歌詞になっているのは、例えば「sea」)。
では円環だとどうなるか。「今更」の場合。
このように過去であるランドリーの日々は未来の地点になる。目指すべきゴールといったところか。津野が“バックオーライ”と叫び、戻ってきて欲しいのは、過去の音楽をやっていた父である。しかし直線の時間ならば、過去は津野の後ろに位置する。ゆえに津野が「今更」のPVにあるように、前方に走りながら、追いかけながら、“バックオーライ”というのは変である。
しかし、円環の時間ならば過去は津野の前方に位置するので違和感はない。それを示すように、「今更」のPVは「交信」=過去へのSOSの曲のPVへと繋がっている。走っている津野はいつの間にか少女時代へ戻っている(「今更」の最後のカット)。
では『THE PARK』の時点ではどうなっているか。走り出した津野は父に追いつけたのだろうか。
それなりに前へ、前へと
踏み出してきた
だけどyou are遥か未来(「chiffon girl」)
それなりに必死に、必死に
向き合ってきた
追いつきたくていつか未来(「ciffon girl」)
この曲は“幼い恋がこぼれる”とあるし、津野の実存とは関係がなさそうだが、最初に“昔住んだアパートは越してすぐに取り壊されて”とあるし(これは津野の実体験)、“昔からの友だちに 囲まれて知らない人みたい はくまでのんだアイロニー”とあるように恋する幼い女の子についてのみの歌というわけでもなさそうだ。
もう追いつけはしないと悟ったけれど
それは弱さとは違うような気がした
曙が行くよ 夜を引き連れたまま
リセットボタンが壊れたぼくらのように(「曙」)
これらを図にすると以下のようになる。
では円環をやめて直線の時間になるとどうなるか。
「yumeutsutsu」において、
“行こうぜ
うつくしい圧巻の近未来
絶景の新世界”(「yumeutsutsu」)
となる。
絶景の<旧世界>→<新世界>へ。
“近未来”は「ciffon girl」との対比であろう。<遥か未来>が<近未来>になっているからだ。
なぜか。円環の場合、ゴールは決まっている(ランドリー)。しかし、距離が遠く追いつけなかった(“遥か未来”)。
しかし円環の時間を諦めて直線の時間になるのであれば、まだゴールは決まっていない。さしあたりのゴールはドームなのであろうが(“満天の会場はプラネタリウム”「yumeutsutsu」)、今まであったような根源的なゴールはまだ決まっていない。進むべき道も決まっていない(“迷いながら行くよ”「曙」)。直線ならばどの道を進もうが、やり直し(リセットボタン)のきかない一本道である。いい偶然も悪い偶然も引き受けて進んでいくしかない(「EDEN」)*1。
“引き返すことはしない
今も夢にあふれているから”(「石」)
ゆえに今までの赤い公園とは全く違うバンドになる。
まずランドリーは「曙」において復活しない、とされている(“リセットボタンが壊れた僕ら”)。
そしてランドリーの記憶は「kilt of mantra」において、メンバーとの高校時代の思い出に置き換えられている(“代替≒バイバイ”)。この曲はハイランドのキルトスカート(通常タータン柄)を履いた戦士*2と自分たち(高校の制服がタータンチェックのスカート)を重ねているのだろう。「UNITE」において自分たちを戦士に例えている。それにライナーノーツで、「まるで校歌みたいな」とも言っている*3。
この時点で、<円環>とか<未来>の設定もなくなる。<ゲート>にも“バイバイ”している。
ゆえに生まれ変わったバンドとして、『THE PARK』を「ファーストアルバム」と呼んでいたのだろう。もぎもぎカーニバルをやめる、と言った後に決意の表情とともに「曙」を演奏したとslowfadeさんから聞いたが、「曙」はそのような決意の歌であるように見える。
かなり長くなるので省略して書くが『THE PARK』はあからさまに円環から直線へ、というテーマで作られている。
「UNITE」
“おなじゆめをみたい”
“ひとつにもどってみたい”
“許しあえば誰しもが生まれたままの新の時計になる”
「ソナチネ」
“なかなか進まないソナチネがあの日のなかに閉じ込めるんだ”
“いつの日か閉じられるかな 私のソナチネ”
「ciffon girl」
“それなりに前へ、前へと踏み出してきた
だけどyou areはるか未来”
“それなりに必死に、必死に向き合ってきた
追いつきたくていつか未来”
「曙」
“もう綺麗な鶴にはなれないとしても
それが生きていく事なのかもしれない”
“もう追いつけはしないと悟ったけれど
それは弱さとは違う気がした”
“曙が行くよ 夜を引き連れたまま
リセットボタンが壊れた僕らのように”
円環を描いて、リセットボタンを押して元に戻ること、壊れた過去をやり直すことの希望から、それが不可能だと悟り、円環モデルを捨て直線の一本道へ。
そして「Kilt of mantra」でランドリーとバイバイし、メンバーとの高校時代の想い出でそれを代替し、ラスト「yumeutsutsu」へ。“圧巻の近未来 絶景の新世界”へ。
それぞれの曲を細かくみても『THE PARK』は良くできていると思うので、ぜひ読み込んでみてください(特に「ソナチネ」と「曙」)。
*1:「EDEN」と「Yo-Ho」の“轟き”はランドリーの森からの轟きである。直線にした場合、それはどんどん遠ざかってしまう。その事実を『THE PARK』において、津野は受け入れると決意している