赤い公園と<未来>

今回は時間における円環。これがメインのはず。

まずバンド最初期に作られた「私」から。

“一秒ごとの針の悲鳴に

痛んだ胸の内

未来を偲んだ”(「私」)

とある。普通は<過去を偲ぶ>なので、意図的に言い換えてるととっていいだろう。

では、未来と過去が重なるような時間のモデルは何か。円環がまず思い浮かぶ。これが直球で出てくるのが「未来」。

“未来 未来 時代

宙に舞うネオン シアン レオン(?)

始まりみたい 未来 未来

帰ろう”(「未来」)

<未来>が<始まりみたい>であり<帰る場所>でもある。「未来に帰る」という表現は少しおかしい。ここでも<過去>を<未来>と言い換えているととってよいだろう。そもそも円環の時間の場合、<未来>と<過去>は同じ場所に位置する。

 

では、なぜ円環の時間を採用するのか。

「私」に“一秒ごとの針の悲鳴に痛んだ胸の内”とある。直線の時間の場合、過去はどんどん遠ざかってしまう。つまり一秒ごとに、ランドリーの日々は遠ざかってしまい、復活や復元、またはたんに思い出すことさえも難しくなっていく(宝物である記憶が薄れていくことが歌詞になっているのは、例えば「sea」)。

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直線の時間

では円環だとどうなるか。「今更」の場合。

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円環の時間



 

このように過去であるランドリーの日々は未来の地点になる。目指すべきゴールといったところか。津野が“バックオーライ”と叫び、戻ってきて欲しいのは、過去の音楽をやっていた父である。しかし直線の時間ならば、過去は津野の後ろに位置する。ゆえに津野が「今更」のPVにあるように、前方に走りながら、追いかけながら、“バックオーライ”というのは変である。

 

しかし、円環の時間ならば過去は津野の前方に位置するので違和感はない。それを示すように、「今更」のPVは「交信」=過去へのSOSの曲のPVへと繋がっている。走っている津野はいつの間にか少女時代へ戻っている(「今更」の最後のカット)。

 

では『THE PARK』の時点ではどうなっているか。走り出した津野は父に追いつけたのだろうか。

それなりに前へ、前へと
踏み出してきた
だけどyou are遥か未来(「chiffon girl」)

それなりに必死に、必死に
向き合ってきた
追いつきたくていつか未来(「ciffon girl」)

この曲は“幼い恋がこぼれる”とあるし、津野の実存とは関係がなさそうだが、最初に“昔住んだアパートは越してすぐに取り壊されて”とあるし(これは津野の実体験)、“昔からの友だちに 囲まれて知らない人みたい はくまでのんだアイロニー”とあるように恋する幼い女の子についてのみの歌というわけでもなさそうだ。

もう追いつけはしないと悟ったけれど
それは弱さとは違うような気がした

曙が行くよ 夜を引き連れたまま
リセットボタンが壊れたぼくらのように(「曙」)

これらを図にすると以下のようになる。

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『THE PARK』

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円環をやめ再び直線へ



では円環をやめて直線の時間になるとどうなるか。

「yumeutsutsu」において、

“行こうぜ

うつくしい圧巻の近未来

絶景の新世界”(「yumeutsutsu」)

となる。

絶景の<旧世界>→<新世界>へ。

“近未来”は「ciffon girl」との対比であろう。<遥か未来>が<近未来>になっているからだ。

なぜか。円環の場合、ゴールは決まっている(ランドリー)。しかし、距離が遠く追いつけなかった(“遥か未来”)。

しかし円環の時間を諦めて直線の時間になるのであれば、まだゴールは決まっていない。さしあたりのゴールはドームなのであろうが(“満天の会場はプラネタリウム”「yumeutsutsu」)、今まであったような根源的なゴールはまだ決まっていない。進むべき道も決まっていない(“迷いながら行くよ”「曙」)。直線ならばどの道を進もうが、やり直し(リセットボタン)のきかない一本道である。いい偶然も悪い偶然も引き受けて進んでいくしかない(「EDEN」)*1

“引き返すことはしない
今も夢にあふれているから”(「石」)

 

ゆえに今までの赤い公園とは全く違うバンドになる。

まずランドリーは「曙」において復活しない、とされている(“リセットボタンが壊れた僕ら”)。

そしてランドリーの記憶は「kilt of mantra」において、メンバーとの高校時代の思い出に置き換えられている(“代替≒バイバイ”)。この曲はハイランドのキルトスカート(通常タータン柄)を履いた戦士*2と自分たち(高校の制服がタータンチェックのスカート)を重ねているのだろう。「UNITE」において自分たちを戦士に例えている。それにライナーノーツで、「まるで校歌みたいな」とも言っている*3

この時点で、<円環>とか<未来>の設定もなくなる。<ゲート>にも“バイバイ”している。

ゆえに生まれ変わったバンドとして、『THE PARK』を「ファーストアルバム」と呼んでいたのだろう。もぎもぎカーニバルをやめる、と言った後に決意の表情とともに「曙」を演奏したとslowfadeさんから聞いたが、「曙」はそのような決意の歌であるように見える。

 

かなり長くなるので省略して書くが『THE PARK』はあからさまに円環から直線へ、というテーマで作られている。

「UNITE」

“おなじゆめをみたい”

“ひとつにもどってみたい”

“許しあえば誰しもが生まれたままの新の時計になる”

ソナチネ

“なかなか進まないソナチネがあの日のなかに閉じ込めるんだ”

“いつの日か閉じられるかな 私のソナチネ

「ciffon girl」

“それなりに前へ、前へと踏み出してきた

だけどyou areはるか未来”

“それなりに必死に、必死に向き合ってきた

追いつきたくていつか未来”

「曙」

“もう綺麗な鶴にはなれないとしても

それが生きていく事なのかもしれない”

“もう追いつけはしないと悟ったけれど

それは弱さとは違う気がした”

“曙が行くよ 夜を引き連れたまま

リセットボタンが壊れた僕らのように”

円環を描いて、リセットボタンを押して元に戻ること、壊れた過去をやり直すことの希望から、それが不可能だと悟り、円環モデルを捨て直線の一本道へ。

そして「Kilt of mantra」でランドリーとバイバイし、メンバーとの高校時代の想い出でそれを代替し、ラスト「yumeutsutsu」へ。“圧巻の近未来 絶景の新世界”へ。

 

それぞれの曲を細かくみても『THE PARK』は良くできていると思うので、ぜひ読み込んでみてください(特に「ソナチネ」と「曙」)。

 

 

*1:「EDEN」と「Yo-Ho」の“轟き”はランドリーの森からの轟きである。直線にした場合、それはどんどん遠ざかってしまう。その事実を『THE PARK』において、津野は受け入れると決意している

*2:キルト (衣装) - Wikipedia

*3:赤い公園 | THE PARK